JICA専門家の軍門に下る

<概要>
JICA専門家とは、協力隊員と違ってプロフェッショナルの国際協力専門家である。俺がフィジーにやってきたのはJICA職員ではなく、開発コンサルタント会社の人がJICAから業務を委託されてJICA専門家という肩書として業務を行っていた。
俺の職場のように、JICA専門家と協力隊員が両方存在しているところは他の国でもよくあることらしい。スキルや権限からして、どうしても専門家が上で隊員が下、というようになるので、隊員の中には怒って途中帰国する人もいる。
しかし、活動がうまく行っていない俺は、しょーもない意地は捨ててあっさりJICA専門家の下に付くことにした。

この時期は俺は活動が軌道に乗らず、暗中模索していた。
やる気がある、というか、職場に来てから1ヶ月以上経つのに、何も出来てない自分の存在意義を確立させたくて必死だった。
別に周囲から期待されていたわけでもなかったので、もっとのんびりやっても良かったはずだが、当時の俺は自意識過剰だったのかもしれない。

5月18日
私の仕事は一言で言って、ラウトカ市の廃棄物適正化となるのだが、同じ目的のJICAのプロジェクトが別に存在している。私もそれに連携することが期待されているが、独自にやりたければ別にそれでもいい、というあいまいな関係であった。なのでプロジェクトの専門家達とどうおつきあいするのかは、かねてからの懸案事項であった。そしていよいよ今日、専門家チームがやってきた。全部で9人いるのだが、今回は4人で、他のメンバーも今後要所要所でやってくる。4人の内3人はこの道の大ベテランで、残りの一人は若手で元フィジーの環境隊員という強力専門家軍団である。

私は自分の現状を率直に話し、また、要請書を見せて、自分の役割を説明した。そして、目的を達成する最も近道を考えた時、私はどういう役割を担うべきかを専門家に相談した。すると「それなら、私たちエキスパートの下で半年間ぐらい、作業しつつ、勉強してから、活動を始めなさい」と申し出てくださったので、私は深々と頭を下げたのだった。そしてすぐさま彼と二人でボスのところに説明しに行った。「彼は今後私たちに付くので、彼に仕事を振る時は私たちに知らせてほしい。その時は彼を指導するから。」と、もう、ボランティアでも何でもない状態になった。しかし、専門家の方々には色々と情報を提供していただき、ワークショップにも誘っていただき、今日だけでもいろいろ世話になった。しかし、これに甘えすぎず、私はひたすら勉強を続けなくてはいけない。

●過去を振り返って
これ以降、JICA専門家の仕事ぶりを間近で見させてもらったが、彼らの力量はさすがというしかなかった。そして、世話にもなった。感謝している。
しかし、その反面、協力隊員である自分の存在意義がかなり薄れてしまった。まあ、こっちは素人だから仕方ないのだが。
このように、JICA専門家と協力隊員が同じ職場に派遣されることは他の国でもあって、うまく関係が作れなかった隊員は任期短縮で帰ってくることもある。
俺には彼らと張り合う力量がなかったので、潔く軍門に下った。

5月19日
今日は明日のワークショップ参加のため、2時半に仕事を切り上げて(何もしていないが)スバに向かって出発した。4時間ほどで到着した。7時から企画調整員のSさんを囲んで、サザンクロスホテルの韓国料理店で食事をした。9時前に一足先にお暇して、同期隊員の家を訪問した。男2人所帯にもかかわらず、綺麗にかたずいていて、さすがと思った。二人とも順調に活動をスタートさせたみたいで、また、大きな病気等もないようで、安心した。また久々にお湯のシャワーを使うことができたのは予想外に感動した。今日は彼らの家のお客さん用の部屋で一泊させてもらう。

5月20日
吉川さんと朝マックしたあと、ワークショップ会場に行くため、店の前でタクシーを捕まえた。しばらく走って、わざとか、忘れていたのか知らないが、タクシーメータのスイッチが入ってないことに気づいた。それを運転手に指摘すると、ノープロブレムと言って、もと来た道を引き返して、マクドナルドの前まで戻ってきて、メーターのスイッチを入れた。私たち急いでいるんだけど、といっても、運転手は笑うだけ。しかも、奴は運賃のお釣りをごまかそうとした。もちろんその手は食わなかったが、結局それで余計な時間を食って、集合時間を過ぎてしまった。しかし、ワークショップの主催者が遅刻していたので、そこから30分以上待ってからワークショップが始まった。

このワークショップは廃棄物問題解決のためのコミュニケーション能力の向上を目的としているという。今日明日の2日間の日程である、午前中は廃棄物問題の概説であった。話者の英語は比較的聞き取り易く、半分ぐらいは理解できた。ラジオのBBCで鍛えた成果もあったか。

しかし午後からのグループ討論は目的が良く分からず、退屈だった。これを見限ったJICA専門家たちとともにこの日でラウトカに帰ることした。

6時発、10時半着。途中小便しながら見上げた夜空の星の数がすごかった。

5月21日
木曜恒例の会議がラウトカであった。今回からJICA専門家が参加し、初めて本格的な会議となった。今回はスバからシニアボランティアの岬さんが来られた。事前に岬さんは深刻な状態で頑なになっていると聞いていたが(専門家の佐野さん曰く「君より深刻な状態。」、私も深刻なんですね…)、会えば岬さんはいつも通りだった。聞けば、まだ何もしていない状態という事で、私と似たような状況だった。「何もしなくとも、無事に2年間すごせたら、それだけで60点ですよ」と言ったら、「そう、そうだよねぇ」とそこだけ彼のテンションが上がった。
会議中もいつもの彼らしく、会議に集中せず、カメラいじったり、もらった名刺確認したり好き放題していた。会議後聞けば、「50パーセントぐらいしか理解できなかったよ」と言っていたが、あの様子で50パーセントも理解できたのはすごい語学力だと思った。
その後は皆で昼食をとって、ゴミ処分場を少し見学して、岬さんは帰って行った。来週に車を買うらしいので、これからは頻繁にラウトカに来て、私たちに様々な面で刺激を与えてほしい。

●過去を振り返って
シニアの岬さんは本来ならすごいキャリアのある人なのだが、俺と同じく英語がヘタで、また、あまりフィジーの環境に適応出来なかったみたいで、この1月後ぐらいに帰国してしまった。JICA専門家とも一緒にやろうとしなかったのは、彼もまた専門家である意地だったのだろうか。

5月22日
今日はプロジェクトのリーダーの人と話をして、今後は処分場の浸出水の調査にかかわってほしいと言われた。もちろんそれはOKなのだが、それだけでは手が空きすぎるの。それ以外で自分でもやること考えないといけないので、独自にポイ捨ての定量的な調査と、そこから導きだされる対策と、その後の検証と普遍化に取り組むことを心の中で決めた。
当初私に期待されていた3Rの推進は、教育の前にそれに対応した社会システムが構築されないと動きにくいし、さらに、こちらはJICAの専門家が取り組むので正直で出番がない可能性がある。一方、ポイ捨てに関しては手薄とみたので、私としてもやり易い。ようやく自主的なボランティア精神が発揮できそうで、元気が出てきた。明日明後日は休日だが、家で計画を練りたい。

●過去を振り返って
俺は素人だが、なんとか自分のできることを見つけて、取り組みたいと燃えていた。しんどくても、自分の存在意義を確立するほうが大切だった。

5月23日
この日はネットプレイスでポイ捨ての情報収集をしようとしたが、混雑していたため、映画を見に行った。チケットは5ドル(250円)と日本に比べれば格安である。フィジーで映画館に行くのは初めて出会ったが、かなり(フィジーにしては)きれいな建物である。何でもよかったのだが、ターミネーターサルベーションという白人が吠えながら銃を撃ちまくるだけの映画を見た。英語があまり理解できなくてもなんとなく解った。しかし、これがDVDなら途中でスイッチを切っただろうが。

それより、フィジアンが本来笑う場面でないシリアスな部分で爆笑しているのが面白かった。

その後、予定通りネットして帰った。

○フィジー生活も2か月が過ぎたが、道は遠い。

5月24日
今日も一時間歩いて映画を見に行った。インクハートという親子で楽しめるファンタジー映画、だったのだろうが、やはり英語が理解できず、渋い顔で映画館を後にした。今週は欧米の映画ばかりであったが、来週はインド系の映画もやるみたいなので、懲りずにまた来ようと思う。

帰り道は大雨だったが、最近は水シャワーで鍛えているので濡れてもへっちゃらだった。

5月25日
一日中ポイ捨て調査の企画書を作成していた。しかし一日が過ぎるのがとても速く感じる。

また、良く分からんが、フィジアンの女の子が秘書見習いとして来ている。緊張しているのか、こんなにもおとなしいフィジアンは初めて見た。

5月26日
今日も企画書を書いていた。難しいが、書くことは英語の勉強にもなってよい。

○近所に仲の良い親戚(ママの兄)の一家がいて、ほどんど毎晩やってくる。そしてベランダで茶飲み話をしているわけだが、私もよく引っ張り出される。かれらの英語はママの英語より分かりにくく、ほとんど理解できないので、彼らから話しかけられたら、ほとんどいつも愛想笑いでごまかしている。多分変なガイジンとしか思われていないだろう。

●過去を振り返って
この企画は結局お蔵入り。やる気はあったが空回りしていた。
今日記を読むとポイ捨てにかなりこだわっているように見える。
職場の同僚からすればポイ捨てはそれほど重要ではなかったのだが、自分のできることといえばそれぐらいしか思いつかなかったので、正直かなり苦しい状況だった。

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