ありがとうフィジー、ありがとう協力隊

私にとって協力隊参加は大きな冒険だった。手に職もないのに30歳で会社を辞め、退路が無くなった。そして、要請内容は専門外だったし、しかも私は英語がまったく出来なかった。装備も何にも無いのに冬山に登るような無謀さだったかもしれない。しかし、私にはやる気だけはあった。未知の外国で待ち受ける困難や危険に立ち向かい、危機一髪でそれを乗り越えるスリルとロマンといった、素朴な冒険心が参加の動機の大きな部分を占めていた。会社を辞める前、協力隊への参加を考える時にはいつもわくわくした。長らくそういう感覚を味わったことは無かった。
他にも英語が話せるようになりたいとか、南の島のきれいな景色が見たいとか、色々あったが、それも未知の世界にあこがれると言う一種の冒険心と言えるだろう。

そしてもう一点、これは自分と社会との関係性の話だが、私は長年日本社会の窮屈さに嫌気がさしていた。何に対しても細かいし、それを人に押し付ける所がたまらなく嫌だった。よほど忍耐強い人か、他人から賞賛されるような才能を持つ人以外はこの国でまともな生活を送れないと思っていた。なので、知識としては知っているが、日本と異なる他の国の価値観に触れてみたい、というのも動機としてあった。

そして、当時の私の状況を打破する条件を協力隊参加はすべて満たしてくれた。まず一つ、そういう機会を与えてくれたジャイカと、税金を払ってくれた国民の皆さんにお礼が言いたい。また、自分の意思で仕事を辞めれた状況と、厳格な健康診断をパスした健康な体に生まれついたことは実にありがたいことであった。

さて、参加から帰国後までの道のりを振り返ってみよう。
会社を辞めたあと、駒ケ根での2カ月間の訓練はなかなか思い出深いものがあった。勉強は大変だったが、雪と氷に囲まれた冬の訓練所での人間模様はこれまでになく新鮮であった。集団行動が大嫌いな私は一人でご飯を食べ続けるなど、偏屈な行動を繰り返すこともあったが、数人の仲間とたくさんの思い出を作ることが出来て、ああ、これが青春って言うんだ、と思った。

訓練が終わって、出国までの間、意外に私は冷静だった。もっとドキドキするかと思ったが、ちょっとしばらく出張にいくように淡々と準備をしていた。理由としては仲間と一緒に行くし、ジャイカもサポートしてくれるという安心感があったからだろう。

それでも、フィジーに到着すれば幾分気分も高揚した。初めて見る景色やジャイカ事務所でのオリエンテーション、ドミトリーでの生活はこれまでの生活とは全く異なるものだった。しかしながら、それもまた仲間と共にいたので、直にフィジーに触れているという実感がなかった。

ドキドキして眠れなかったのは、今でも忘れない、ラウトカに赴任する前夜だった。これまで意外に冷静だったのだが、この時になってようやくこれから待ち受ける危機を本能が感じ取った。言葉もろくに話せず、たった一人で未知の場所で働き、生活するという冒険の、真のスタートだった。

職場はラウトカ市役所保健課。食品衛生の検査や、伝染病防止を担当する部署で、私の要請内容の廃棄物問題についてもここが扱っていた。当初の私の仕事は特になし。毎日文書を読む日々。同僚ものんびりしていたので、それほとあせらなかったが、それでも4月末には何かやろうと思って、カウンターパートのシャレンと話し合いを持った。教材作って学校とかコミニュティー巡回してほしいとのことだったが、漠然としていてあまり期待されてないなあという感じを受けた。

それから間もなくして同じ職場に入っているジャイカの廃棄物プロジェクトの専門家がやって来た。彼らは専門家、私は素人。数ヶ月間自分の存在価値の無さに悩んだ。それでも9月ぐらいからコンポスト実験が始まったので、そこに首を突っ込んでようやく自分の立場が出来たことにほっとした。

一方で、生活に関しては6月までホームステイだった。インド系のムスリムの家だったが、生活習慣の違いに戸惑う事は多かったものの、勉強させてもらったと思っている。最後にちょっと嫌な別れ方をしたので、その後この家を訪れることはなかったのは少し残念であった。

その後立派な一軒家に移って、他の隊員(岸田さん)と同居した。この岸田さんと近所に住む松下さんには、私がへこんでいる時によく励ましてもらった。

食生活に関しては、ホームステイ中は概ねカレーだった。一軒家に住めるようになってからは、始めはキャッサバ等のローカルフードを頑張って食べていたが、そのうち日本食の割合が増えて行った。

ホームステイ先がムスリムだったので、その間酒はほとんど飲まなかったが、ホームステイ後はちょくちょく飲んでいた。始めのうちはMHスーパーで売っている10ドルワインを好んで飲んでいた。岸田さんが9月に帰国してから2月に有田さん(アリー)が来るまで、一人暮らしだったが、その間は酒量が増えて、一日一本飲んでいた。初めて家にやって来たアリーが、部屋中埋め尽くすワインの空き瓶に驚いたほどだ。

私もアリーもかなりの酒好きなのだが、アリーが来てすぐ、健康のため平日は飲まない、という協定を結んだが、多分3カ月ぐらいで無効になったと思う。二人になって輪をかけて飲むようになった。この時から、ラウトカ隊員=酒隊員、というイメージが定着した。
後半になると、私の好みもワインからラム酒に変わって、さらに酒量はエスカレートした。また、客もよく来て、宴会もよくやったので、あの家の酒の消費量はフィジー隊員の中で、2位以下に数倍の差をつけてトップだったと思う。しかし、私は健康診断で引っ掛かったことは一度もなかったので、問題は無かった。アリーは問題がありありだが、元気そうなので今はいいや。

さて、少し仕事の話に戻る。市場ゴミのコンポスト化は最終的に成功し、販売するところまでこぎつけた。多くの人の尽力があってのことであるが、一応これが私のメインの業績だと思っている。また、家庭用ホームコンポスターの普及や、学校3R普及等にも微力を尽くした。全体的に言えることだが、私の役割はヘルパーで、自分が先頭になって事業を引っ張っていくと言うことはしなかった。ジャイカ専門家もいるし、現地職員も優秀なのでその必要もなかった。協力隊なので協力しただけである。私がやったのは、ジャイカプロジェクトの流れを見極めて、手薄な所に割り込んだことと、現地職員の依頼を受けて作業をしただけである。ただし、現場レベルでは気付いた点について現地職員に提案することはしばしばあった。あるいは現場では自分の好きにやっていた。オフィスにいるよりも現場にいる方がのびのび出来て好きだったかもしれない。マーケットやコンポスト実験場でグロッグ飲んでぼけーっとしている時間が好きだった。

職場の同僚は入れ替わりがあったが、概ね皆さんナイスガイでよい職場だったと思う。配属先の良し悪しは運であるが、私は恵まれていたのだと思う。ただ、私がもう少し英語ができればよかったのだが、あまり深い話が出来なかったのが残念に思っている。

結局、英語が不得手なままでも何とか2年間やってこれたわけだが、もっと話せれば、もっと上手く活動できたのになあ、と思う場面は幾度となくあった。やはり語学が足を引っ張った面は否めない。しかし、私は英語がとっても嫌いだった。案外語学が好きと言う人も結構な割合でいるのだが、私は残念な部類の人だった。

その分家では日本語の素晴らしさを味わっていた。アリーとはほぼ毎日飲んで話していた。ときおり近所の隊員もやってきて飲むことも多かった。なんだが、家で飲んでばっかりだったが、時には旅行もし、ダイビングにも行った。チョプシー食べあるきツアーにも行ったし…。何だか思い出が溢れて来て取りとめが無くなってきた。そもそも2年間すべてをここに書けるわけがないし、そもそも誰に向ってこんな長い文章を書いているのだろうか?そして、まとまりが無いのは私の心がまだ整理されてないからだと思う。しかし、時間が経って、洗練された文章を書くより、乱雑でも心が熱いうちにしか書けない事もあろうかと思い、今一気に書いてしまう。

さて、私の冒険は成功だったのだろうか?ピンチは幾度となくあった。寝れない晩もあった。しかし周囲の助けもあり、なんとか2年間やり遂げることができた。そして冒険にはつきものの宝探しであるが、残念ながら手に入らなかった物もあったが、他に価値のある宝物をいくつも手にすることができた。100点ではないが、十分である。情けない思いをしたことも大小合わせて1000回以上あったと思うが、自分の未熟さをはっきりと自覚できたと言う事も成果の一つである。それは日本にいたら気付かなかったことも多い。

そして、日本という国を離れてみることが出来て良かった。フィジーでは日本とは異なる価値観、例えば仕事より家族やプライベート中心とか時間や約束は守らないとか、それで十分幸せに暮らしていた。ではそのフィジーの価値観が絶対的真実なのかというとそれは頷けない。日本には日本の良さもある。ストレスは溜まるが、日本人の細かい所にこだわる精神は、物作りにせよ、サービスにせよ、極めて高水準のクオリティーを作り上げている。日本に帰ってきて、見るにせよ食べるにせよ、すばらしいと思うことは多い。なんでもほどほど、というフィジーの精神ではこうはいかない。
結局のところ、私はこの先、日本での生活を選ぶ。ここでなんとか踏ん張って生きて行く、その決心がついた。それもまた大きな成果だと思っている。

この辺でいいだろうか。心の整理も荷物の整理も終わっていないが、そろそろ次に進もうと思う。とりあえず、ここで一区切りつけたい。私の人生はこれからまだまだ続くが、もはや協力隊員ではない。なので名残惜しくもあるが、日本最長協力隊員日記はこれにてお終い。

最後に、
ありがとうフィジー、幸せとは何かを考えさせられた。
ありがとう仲間たち、楽しい時もつらい時も寄り添ってくれた、掛け替えのない存在。
ありがとう協力隊、この2年間、はっきりと生きる実感があった。

私は確かに、2年間を生きたのだ。

【完】

●過去を振り返って
これは帰国して1週間後に書いた文章である。
読み得した自分で自分にお疲れ様と言ってあげたい。
しかし、この先1年は無職のおっさんとして肩身の狭い生活を送るのであった。

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2 Responses to “ありがとうフィジー、ありがとう協力隊”

  1. ひかる より:

    記事見させてもらいました!

    今年の秋募集受けてみます!29歳です。

    僕も英語が苦手で受かるかもわかりませんが

    息苦しい日本を飛び出してみたいと思います。

    元気がもらえました!
    ありがとうございます!

    • vinaka より:

      ひかるさん

      コメントありがとうございます。
      協力隊は参加すれば人生は変わります。
      苦労は多いですが、是非挑戦してみてください。
      応援しています!

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